サポート石巻とは
2011年3月、発災直後に国内外から、被災者である代表へ多くの支援(物資・人)が集まったことがきっかけで、団体を立ち上げました。県外のサポーターや石巻の友人や家族・親戚などに支えられて活動を行ってきました。 NPO格も、法人格も持たず、完全なるボランティアで、全国の人々の協力のもと細々と活動しています。
発災直後は、生きるための「生活支援」活動から始め、「混乱した現地の調整」「自立を促す」「非被災地での風化防止・防災をひろめる」など多岐にわたる活動をしてきました。
ライフラインが途絶え、多くの人が行方不明の混乱した日々の中で、被災者とボランティアとの気持ちや考え方、文化や習慣の相違によりさらに混乱がありました。「助けに来ていただいた支援者(ボランティア)さんに申し訳なくて本音が言えない」という市民の声があり、誰かが中間に立たなければいけないと痛感し、その調整役を行いました。被災者・支援者のどちらの言うことも気持ちもわかるので、心が折れた時もありました。
何よりも、わがチームが心がけてきたことは「公平」な支援です。マスコミで取り上げた地区には多くの物心支援が入りますが、まったく支援がない地区も多くありました。プレハブ仮設住宅(以下、P仮設)ができると、みなし仮設(アパートや貸家)、持ち家に住んでいる人たちには、支援が届かなくなりました。また、物資の配布・炊き出しがあっても、違うP仮設には行けない暗黙の了解があったり、支援者が入りやすいいつも同じP仮設に、支援が偏っていることは2015年も続いています。
「被災者」の定義はなんなのか。「津波や地震で家や会社を失った人だけ」という人もいれば「石巻市民全員」という人もいます。わがチームでは「震災前と生活が変わった人」を定義としています。つまり、市民全員です。震災後、ライフラインが復旧して元の生活に戻れても、全く影響がなかった人はいませんでした。家・車が被害にあわず仕事を変わらずにできても、家族や友人を失った人はたくさんいます。震災が起こって、ショックを受けなかった市民は誰もいません。長い間ライフラインがなく、買い物もガソリンを給油することもできず、発災直後はみんな同じ状況で、助け合って生きていました。
たくさんの支援が届き、多くの支援者に来石していただくようになり、私たち市民は「助け合い」を忘れていったように思います。時々聞こえる、自衛隊のヘリコプターの音を聞くと、被災者同士で必死で救出し、分け合って食べ、気を遣いながら過ごした日々を思い出します。「たくさんの支援が人々の心を狂わせ、支援格差を生んだ」という声も聞かれますが、わがチームはその格差を少しでも埋めたいと「公平な支援」を心がけて活動しています。
現在は生活が震災前と同じに戻っても、心が元気になっていない人はたくさんいます。「被災者が笑顔で驚いた」という声を来石した支援者からよく聞きますが、表向きは元気にしているけれど本当は落ち込んでいる人もいるし、笑顔の陰には涙があったりもします。市民全員が元気になるのは、あと何年かかるかわかりません。
代表である私は「生き残ってしまって申し訳ない」という気持ちになることが、今でもあります。この活動をさせていただくことで、生きている意義を確認しているような気もします。
石巻以外でも活動を行ってきましたが、被災地だけではありません。未被災地での「防災・減災」にも力を入れています。日本全国で地震が頻繁に起こるようになり、防災の知識を持つ人も増えた一方で「災害が起きてから考えればいい・自分は大丈夫」という人もいます。私たちのつらい経験を日本のどこかで「繰り返さない」ために、反省点や被災してみないとわからないことを踏まえて全国で講演会・お話会・アドバイスをさせていただいています。
被災地の話を聴いて、見学して「かわいそう、大変だったね」では終わらずに【自分のことに置き換えて、同じことが起こったらどう行動するか】を考えていただきたいと願っています。
特に学校や大学でお話をするときに「被災地に行きたいけど時間・お金がない」という声が聞かれます。「被災地ですることだけがボランティアではなく、遠くからでもできる活動」はたくさんあります。「被災地ではできない、被災地のための活動」もあります。また、「自分の居住地のためにする防災減災活動」もあります。大きなことはできませんが、ぜひ一緒に活動しませんか!
最後に、金華さばのデザイン、印刷材、このWebサイト制作なども含め、市内外の、実にたくさんの無償支援者さんたちのご協力・応援があって今日まで活動してきました。 ありがとうございます。
今後もどうぞ、ご協力・応援宜しくお願いします。